できることから始めたい

コロナ禍でも学校のオンライン化が遅々として進まない日本。
 
オンライン学習で教育のすべてが完結できませんが、子どもたちの学びをより充実させるツールの1つとして不可欠なものと考えています。
 
話は変わりますが、PHPから新書「教師崩壊」先生の数が足りない 質も危ない(妹尾昌俊)が出されました。日本の学校教育の状況を的確に指摘しています。
 
この本には書かれていませんが、学校がいつの間にかサービス業化してしまい、次世代の責任を果たせなくなったことが極めて問題だと思っています。
 
今こそ、教育の意味を考え、公教育の果たすべき学校の役割をみんなで考え、ホンモノの教育を創り上げていかなければ教育の劣化は避けられず、それこそ日本が危なくなってしまいます。
 
このままではいけないと思う人が、何でもいいので、とにかくできることから始めることしか無いように思っています。
 
そんな思いでブナ塾を開設しています。
 
(*石田勝紀氏の文を転記させていただきます。)
石田勝紀(いしだかつのり)◆一般社団法人 教育デザインラボ 代表理事◆公立大学法人 都留文科大学 国際教育学科 特任教授
教育という分野に携わり、28年を経ました。私は民間の学習塾を20歳のときに創業しました。これはサービス業の分類に入ります。また、34歳で中高一貫の私立学校の常務理事をやりました。私立とはいえ、公的な学校ですから、これはサービス業ではなく、学校教育という分野に分類されると思います。
 今、公立学校含めた学校群は、全国的に民間企業のように、ステークホルダー(関係者)にコミットメント(目標)を示し、他者から評価を受けなければならないようになっています。これは難しい言葉で言えば、競争原理主義を主張する新自由主義的発想に基づくものであるといいます。
 私は、もともと教育をしながらも他塾との激しい競争にさらされた世界で生きてきましたから、世間知らずの先生たちで構成され、100年前の授業形態を今も粛々と行っている閉じられた空間である学校という世界も、当然、競争原理に基づく市場原理主義を実施すべきであるとかつては考えていました。私立学校の経営改革を行ったときも、この考えに基づいて行っていました。確かに、改革すべき学校というところは、いわゆるダメ先生が目につきます。しかし、その後私は公立学校の状況や多くの私立学校を視察し多くの先生方や校長先生と話をするにつれて、その実態が明らかになるにつれて、考え方が変わってきたのです。
 この実態の詳細はまた今後に譲るとして、今回のテーマは「教育はサービス業か?」ということですので、その点についてお話をしようと思います。
 教育とはサービス業であるべきと、私は10数年ぐらい前まで思っていましたが、今はどうもそうではないという実感があります。私の塾は、形態は株式会社ですが、内容は間違いなく教育をやっていると自負しています。しかし私が知る多くのチェーン塾は、生徒=お金という考えがあり、教育ではなく教育という名を語るサービス業をやっているようです。その証拠に、教育では人を育てなければなりませんが、頭のいい生徒をいかに入れ(特待生として授業料を免除して)、またその生徒を広告塔として使い、下の学力の生徒をお客さんとしてたくさん入れ稼ぐというモデルとなっています。そして下の学力の生徒は授業料だけせっせと徴収し、成績は一向に上がりません。私はこれを“教育と言う名を使うサービス業”と言っています。先日、ある講演会で著名な教育学者の先生が非常に良い事をおしゃっていました。
「教育はサービス業ではない。今やサービス業化したため、クレームが増えた。教育は次世代への責任である」」
 まさに、サービス業化したために、クレームを助長していったことは否めません。親も学校はサービス業なのだから、適切なサービスを得られていないから文句を言うという論理がまかり通っているということです。もちろん、親だけの問題ではありません。今の日本の教育体制が良いはずはありません。変えるべきことは変えなければいけませんが、民間企業よろしく、公的な学校がサービス業化しているという実態は確かにあります。役所もそうでしょう。最近は、役所のサービスが過剰すぎるぐらいの“おもてなし”をしています。かなりの違和感を覚えることすらあります。かつての役所は横柄で、気分を害することが多々ありましたから、良い傾向なのかもしれませんが、大きく揺り戻してバランスを欠いているように思えるのは私だけではないでしょう。
 さて、教育の話も戻しましょう。教育とは次世代への責任であるとは名言です。誰しも(今、子どもがいようないまいが、既婚未婚にかかわらず)が教育に関心を持ち、それが次世代への責任であるということを強く認識すれば、現代教育問題の多くは解決するのではないかと思っています。